登入帰り道、コンビニへ立ち寄った。
昨日からほとんど何も食べていないことに、ようやく体が気づいたようだ。 水と小さなパンを手に取り、レジで携帯電話をかざす。 短い電子音が鳴った。 「申し訳ありません。決済できないようです」 店員に言われ、紗英は画面を確認した。 いつも使っている決済方法には、雅人名義のクレジットカードが登録されていた。 利用停止。 画面には、そう表示されている。 雅人が亡くなったため、カードが止められたのだろう。 紗英は慌てて、自分名義のクレジットカードを財布から取り出した。 そこには、水城紗英と印字されている。 二年間、仕事の経費以外ではほとんど使わなかったカードだ。 家賃も、光熱費も、食事も、旅行も。 生活に必要な大きな支払いは、ほとんど雅人名義のカードで支払われていた。 『生活費は俺に任せて』 雅人は笑っていた。 それも愛情だと思っていた。 だが、今になって考えれば、紗英が公的な名義変更をしなくても不審に思わないよう、生活のすべてを雅人名義の決済で済ませるよう仕向けられていたのではないか。 そんな疑念さえ湧いてくる。 店を出たところで、携帯電話が鳴った。 知らない番号だった。 「はい」 『水城紗英様のお電話でよろしいでしょうか』 男性の事務的な声だった。 「そうですが」 『私、東都プロパティの森田と申します。水城様がお住まいのマンションの管理を担当しております』 管理会社から連絡を受けるのは初めてだった。 「何でしょうか」 『高槻雅人様のご逝去を報道で知りまして、所有者様より、居住状況を確認するよう依頼がございました』 「所有者?」 紗英は足を止めた。 「マンションは、雅人さんが購入したものですよね」 『いいえ。お部屋の所有者は、エスフィールド・アセット株式会社です』 聞いたことのない会社名だった。 『高槻雅人様は、法人から使用を認められた入居者として登録されております』 「私は?」 短い沈黙があった。 『水城様のお名前は、居住者として登録されておりません』 「そんな……。私は二年間、あの部屋で雅人さんと暮らしていました」 『当方では、個人のご事情までは分かりかねます。ただ、所有者様は、高槻雅人様以外の方が居住を継続することを認めておりません』 「そんな!あそこにもう住むなってことですか?」 『明け渡しについての書面を、管理人を通じて郵便受けへ投函しております。室内に水城様の所有物があることは伺っておりますので、まずは今後について協議させていただければと存じます』 そのあと電話口の男性が話す手続きの概要について、何一つ耳には入ってこなかった。 電話が切れたあとも、紗英はその場に立ち尽くしていた。 婚姻関係はなかった。 仕事も失った。 そして、住む場所すら奪われようとしている。 一つずつ、雅人との生活を形作っていたものが消えていく。 まるで、初めから何一つそこになかったように。◇◇◇
マンションへ戻ると、郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人は、東都プロパティ。 中には、部屋の明け渡しに関する通知書が入っていた。 難しい言葉が並んでいたが、要するに、さっき電話口で聞いた通り、所有者には紗英を住まわせる意思がないという内容だった。 紗英は封筒を握りしめ、部屋へ入った。 玄関には、まだ雅人の靴が並んでいる。 クローゼットにはスーツがあり、冷蔵庫には雅人が好んで飲んでいた炭酸水が残っている。 この部屋のどこを見ても、雅人との気配がある。 なのに、ここで二年間育んだ紗英と雅人の結婚生活は、世間には存在しないものなのだ。 そのとき、インターホンが鳴った。 管理会社の人間だろうか。 画面を見ると、灰色のスーツを着た男性が立っていた。 「どちら様ですか」 『久世総合法律事務所の者です。高槻家の代理人として参りました』 紗英は扉を開けなかった。 「どういったご用件でしょうか」 『高槻雅人様との関係、およびヴァレストラ・ホスピタリティ・グループとの取引について、確認させていただきたいことがございます』 どこまで私を打ちのめそうというのだろう。 「今日はお話しできません」 『では、書面を玄関扉の郵便受けへ入れさせていただきます。ご確認いただけました頃に、改めてご連絡いたします』 男はそれだけ告げ、画面から消えた。 しばらく待ってから玄関を確認すると、扉の郵便受けにひどくぶ厚い封筒が入っていた。 紗英は震える指で封を切った。 最初に目に入ったのは、今後、高槻雅人の妻を名乗らないよう求める文言だった。 >高槻家の名誉を傷つける発言を続けた場合、法的措置を検討する。 そう記されている。 「私が、名誉を傷つけた?」 紗英は紙を握りしめた。 傷つけられたのは、自分の方だ。 夫だと信じていた男に騙され、妻ではないと突きつけられ、仕事も家も奪われようとしている。 それなのに、責められるのは紗英だった。 書面は、それだけでは終わっていなかった。 ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループとの間で行われた取引について、帳簿、請求書、契約書、振込記録など、すべての資料を提出するよう求められている。 「なんで、私の仕事の資料を……」 紗英はページをめくった。 最後に、取引記録の一部が添付されていた。 水城紗英の屋号を宛先として、ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループから多額の金が支払われている。 紗英は、契約先の会社を通して仕事を受けることはあっても、個人名義でヴァレストラから直接業務を請け負ったことはない。 しかも、その書面に記載されている報酬には、恐ろしい桁が続いている。 一千万円 二千万円 さらに、その金が別の会社へ送金されたという記録。 送金指示書には、すべて水城紗英の署名があった。 自分の筆跡に酷似している。 けれど、紗英はこんな書類に署名した覚えなどなかった。 最後の書面には、これまでの経緯に関するヴァレストラ側の見解と、結論として短い一文が記されていた。 ー 水城紗英氏が、高槻雅人氏と共謀し、会社資金の不正流出に関与した可能性があるー 紗英は震えながら、その場に膝をついた。 雅人は紗英に、彼の妻だと信じ込ませていただけではない。 彼女の名前を使い、何かを、恐らく自分が想像できないような何かをしていた。 そして、彼の死によって露見した罪までも、紗英に背負わせようとしているのだろうか。 どこから間違っていたのだろう。 手から滑り落ちる書類を茫然と眺めながら、紗英はぼんやりとそう考えていた。帰宅すると、入れ違いにハウスキーパーの田所がちょうどエプロンを外し、仕事を終えて帰ろうとしていた。「お帰りなさいませ。今日はお仕事、いかがでしたか?」「ええ。順調でした」「それはよろしゅうございました。お仕事に出られるようになってから、表情が明るくなられましたもの」田所の言葉に、紗英は小さく笑った。実際、仕事は順調だった。担当者とも打ち解け、デザイン案も少しずつ形になっている。それなのに、どうしてこんなに気持ちが重いのだろう。――弟から兄だなんて。三枝の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。考えたことがなかったわけではない。世間からどう見られるかも、怜司にどれほど迷惑をかけているかも、自分なりに理解しているつもりだった。ただ、面と向かって言われると、何一つ反論できず、言われた言葉は自分の中で反芻されるばかりだった。雅人を愛していた。結婚していると信じ、二年間、妻として暮らしていた。その雅人が亡くなり、今は怜司の妻になっている。しかも最近は、怜司の帰りを待つことさえ楽しみになっていた。契約で始まった結婚なのに。そんな自分が、少し怖かった。玄関の扉が開く音がした。「ただいま」いつもより早い怜司の帰宅だった。「おかえりなさい」紗英は立ち上がり、笑顔を作った。「今日は仕事、どうでした?」「順調でした。試作も、担当の方に気に入っていただけたんです」「それはよかった」怜司は微笑んだが、すぐに紗英の顔を覗き込んだ。「……何かありましたか?」「え?」「少し疲れているように見える」紗英は慌てて首を振った。「今日はずっと立って作業をしていたので、そのせいだと思います」「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」そう言って、怜司はネクタイを緩めた。
ホテルのロビーに、色とりどりの花が並べられていた。「こちらの花器でしたら、もう少し枝物を減らした方が、奥のソファからも見通しがよくなると思います」紗英が提案すると、ホテルの担当者が頷いた。「確かに。正面からだと華やかなんですけど、横から見ると少し大きいですね」「そうなんです。待ち合わせに利用されるお客様もいらっしゃいますから、視界を遮らない方がいいと思って」紗英は、用意していた花材を少し入れ替えた。今日は、最初に提出したデザイン案をもとに、実際の花器を使った試作を行っている。何度か打ち合わせを重ねるうちに、ホテルの担当者とも気軽に意見を交わせるようになっていた。「やっぱり現場で見てもらうと違いますね」「ありがとうございます。実際に置いてみないとわからないことも多いですから」「この前のラウンジの案も、責任者がすごく気に入ってました。次の打ち合わせもよろしくお願いしますね」「こちらこそ、よろしくお願いします」自然と笑顔になった。仕事を失ったときには、もう二度とこんなふうに花に触れられないかもしれないと思った。それが今は、ホテルの担当者と意見を交わしながら、一つの空間を作り上げている。積み上げてきた実績も仕事も、一度は失ったからこそ、改めて思う。やっぱり、私はこの仕事が好きだ。花で空間を彩り、そこで過ごす誰かの時間をよりよいものにする。そんな仕事を、また始められたことが嬉しかった。◇◇◇作業を終え、紗英が資料を片づけていると、背後から声をかけられた。「水城紗英さん、ですよね?」振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。四十歳前後だろうか。きっちりとまとめた髪に、上品な紺色のスーツがよく似合っている。「あ、はい。そうですが」「私、三枝理香と申します。本社の営業企画部におります」差し出された名刺を受け取ると、女性は穏やかな笑みを浮かべた。「以前は
「澄香さん。あなた、ずいぶん上手く仕事をこなしているそうじゃない」澄香は、ダイニングの扉から入ってきた美津子の姿に、驚く。彼女が、夕食の席にやってくることなど、ほとんどない。「はい。皆さまのお気遣いもあって快適にお仕事をさせていただいています」「悠真のためにも、あなたが会社で認められておくのはいいことよ」美津子は、ダイニングテーブルで食事をしている、悠真の方に視線を走らせる。「あなたの仕事については、黒瀬さんがしっかりサポートをしてくださるそうよ。悠真が将来会社に関わるときのためにも、今のうちから内情を知っておくのは良いことだわ」澄香は黙って頷いた。さっきまで、食事をしながら、楽しそうに友達の話をしていた悠真は、美津子の姿にすっかり黙り込んでしまった。「それより、怜司さんがあの女のせいで、会社を引っ掻きまわしているみたいよ」「……そうなのですか?」「雅人が築いた取引関係まで疑うようなことをしているそうだわ。まったく、何を考えているのかしら」澄香は、先日黒瀬から聞いた話を思い出した。「まったく。怜司さんもあんな女に振り回されて。目も当てられないわね。育ちが悪いったら――」「お母さま。悠真の前ですから」澄香は、慌てて美津子の話を遮った。「ああ。そうね。悠真。早く自分の部屋で勉強しなさい」悠真は、いつものように小さく「はい」と返事をすると、ダイニングを後にしようとする。「悠真。あとでお部屋にデザートを持って行ってあげるわ」そう声をかけると、悠真は嬉しそうに頷いて階段を上がっていった。美津子は、リビングへ移り、ソファに腰を掛けた。澄香はそこへコーヒーを運んだ。「黒瀬さんがね、怜司さんが過去の契約まで調べ始めたせいで、昔からの取引先にまで迷惑がかかっているって言っていたわ」美津子は、コーヒーを飲みながら、澄香に手で向かい側に座るように促した。「引っ掻き回されているっ
黒瀬は、机の上に置いた資料を忌々しげに睨んでいた。系列ホテルの過去の装花契約について、追加資料の提出を求められている。最初は副社長の妻との直接契約を問題にしていたはずなのに、いつの間にか調査の範囲が広がっていた。「なぜ、こんな昔の案件まで調べる必要があるんだ」向かいに立つ部下は、答えに困ったように視線を落とした。「経理からの依頼です。今回の契約との比較資料にするそうで、系列ホテルで共通する取引先についても確認するようにと」「比較なら、過去一年分で十分だろう」「それが、雅人専務の時代まで遡るようにという話でして。新しく契約されたフラワーデザイナーの信用問題に関係するということだそうで……」黒瀬は、思わず舌打ちをしそうになった。新しいフラワーデザイナーとは、雅人の愛人で、今は副社長の妻となった女のことだ。――まったく忌々しいあの女は、雅人の死によって、妻の座も、仕事も、家もすべてを奪われて、消えてしまう予定だった。それがどうしてこんなことになったのか。――金づるだった雅人が死んだら、その兄に鞍替えとは。まったく強かな女だ高槻の家で出会った時には、しおらしくして扱いやすそうに見えたが、結局、あのあと、女から連絡は来なかった。副社長側にすっかり取り込まれたようだ。――遡って、契約を洗い出すなどその中には、今さら掘り返されては困るものがいくつもある。「具体的には、どこまで調べているんだ?」「系列ホテルのうち、雅人専務が直接関わられた案件を中心に、契約書と請求書、それから納品記録の照合を進めているそうです」「納品記録まで?」黒瀬は思わず顔を上げた。「はい。特に海外から調達した花材については、仕入れ先や搬入記録まで確認するようにと」「……ずいぶん細かいことをするんだな」黒瀬は、苛立ちを隠せなかった。「わかった。こちらでも確認しておく。資料は勝手に提出するな」部下が退出すると、黒瀬は携帯電話を取り出した。連絡先を開き、しばらく指を止める。そして、一件の番号を選んだ。「……私だ。少し確認したいことがある」電話の相手は、雅人と取引のあった業者の責任者だった。「過去の請求書について問い合わせが来ていないか?」『ええ。ホテル側から、納品記録を確認したいと連絡がありましたが』「何と答えた?」『古い案件ですから、資料を探して
夕食を終えたあと、怜司が珍しくノートパソコンを持ってリビングへやってきた。「紗英。少し仕事のことで相談したいんだけど、いいかな?」名前で呼ぶようになってから、怜司の接し方は少しくだけたものに変化していた。その距離感に紗英は、まだ少し照れがある。「はい。私でよければ」隣のソファに腰を下ろした怜司が、パソコンを開く。「澄香さんからの話は聞きました。黒瀬が接触してきたそうですね」「はい。澄香さんには、あまり無理をしないでほしいんですけど……」「そうですね。高槻に家にいると、彼女の周囲に味方は少ないでしょうから。せいぜい、黒瀬に話を合わせておく程度で、深入りしないように彼女に伝えてください」怜司はそう言って、画面を紗英の方へ向けた。「実は、過去の装花契約について調べているんですが、気になるものがあるんです」表示されていたのは、請求書をまとめた資料だった。「これは……ホテルの装花費用ですか?」「雅人が関わっていた件です。契約上、かなり高額な花材が納品されたことになっているんですが、実際の納品記録と一致しない」紗英は画面を覗き込んだ。ホテル名、施工時期、花材の種類、数量。馴染みのある項目が並んでいる。「少し見せていただいてもいいですか?」「もちろん」そう言うと、怜司は、身体を寄せて見えやすいようにPCを紗英の前に出した。紗英はパソコンを自分の方へ引き寄せ、請求明細を読み始めた。「……あれ?」最初に気になったのは、花材の数量だった。「このホテル、改装前のロビーですよね?」「そうです。今から二年ほど前の案件ですね」「私、ここに行ったことがあります。以前、装花の打ち合わせで伺ったんです」紗英は、記憶の中のロビーを思い浮かべた。広い吹き抜けが特徴的なホテルだったが、正面には
黒瀬の背中を見送りながら、澄香は小さく息を吐いた。彼は、こんな陳腐な芝居でも、こちらが素直に信じると思っているのだろう。今までの自分なら、そうだったかもしれない。誰かがこうしろ、と命令すれば、そのとおりにしていたはずだ。しかし、今は違う。少なくとも、悠真のこれからについては、自分が慎重に考え、絶対に周囲に流されることのないようにしないといけない。澄香は、携帯電話を取り出し、さきほどの黒瀬とのやりとりについて、紗英にメッセージを送った。ほどなくして返事が届いた。『あまり無理をして、そちら側を探らなくてもいいですからね。危ない目に合わないようにしてください』澄香は、少し考えてから返信した。『大丈夫です。私、演技は上手いんですよ』すぐに返事が返ってくる。『澄香さんに何かあったら、大変ですから。くれぐれも注意してください。この件は怜司さんにも伝えておきます』返事のスタンプを送り終えると、澄香はもう一度、仕事の資料を手に取った。◇◇◇「黒瀬が、澄香さんに?」佐伯の報告を受け、怜司は眉を上げた。「はい。インテリアデザイン部門で、しばらくお話しされていたそうです」「なるほどな。澄香さんなら、簡単に言いくるめられると思ったわけか」怜司は口元を緩めた。黒瀬が澄香を利用し、紗英との対立構造を作り、怜司の評判にも傷をつけようとしていることは容易に想像できた。ただ、黒瀬は知らない。澄香と紗英が、すでに互いを信頼していることを。「それから、副社長。過去の装花契約について、追加の報告がございます」佐伯は別の資料を机に置いた。「黒瀬部長が承認していた案件のうち、ホテル側の納品記録と請求内容が一致しないものが、ほかにも見つかりました」「同じ取引先か?」「はい。複数の系列ホテルで利用されています。現在確認できたものだけで、請求額は約八千万円になります」怜







